『自己責任論』のマインド
仕事でもスポーツでも求められるのはチームワーク。
家庭環境等の福祉関係になった途端、向けられる自己責任。
その『自己責任論』を呟く人のマインドを勝手に分析してみた。
自己責任とは、自らの行動でこなせられる恵まれた環境や立ち向かう環境に適応出来た性質の人が自分を肯定する為に用いられる様に思える。それは生まれながらに偶然手にした体力だったり、親が築いた家庭環境だったり、負けん気が強い性格だったり。その性質の要因は様々だろう。
それは結局、
こなせた人に適応する自己ルール。
もし目の前の挫けそうな人が自分のクローンだったら、その自己ルールは適応するかもしれない。
だけど、見えてる世界は人それぞれ違うもの。
自分が選択して来た痕跡を『誰か』に提示するのは楽だけど、他者が抱えている内容が自分にとっての『想像外』に直面した時、誰かの為に時間を費やして新たな情報を探し、当事者に提示する事を容易にしたがらない人は多いのでは無いだろうか?何故ならそこに『浪費する』行為がかかるから。
人が何かに費す時、相互の関係の維持や自分の立場の向上など、お金に関わらず時間浪費に相応の対価を求める。
その対価を天秤に掛ける気になれない、
顔も名前も知らない見ず知らずの他人に関与するのは面倒な事。だからつい言ってしまう。
「そんなのは自己責任だ」と。
ネット状でよく見られる「自己責任論」とは、
そういう関係性から出てくる言葉なのだと思う。
要は『自己責任論』で突き放すのは楽なのだ。
「この件に関しては当事者として参戦しない」という意思表示みたいなもので、それならいっそ第三者として見守れば良い。
重要なのは、当事者には何が必要なのかを議論べきなんだけど…
それは面倒臭いから「自己責任」と言い、「自己の正しさ」を主張する事で自分の価値を満たそうとするのかも知れない。