いろいろ
書き留めていたモノ達を改めて見直した。
この時、この瞬間だったから書けた事があまりにも多い。
その時期に話題となった物が事柄だから故に、
鮮度がある。
下書きで終えてしまった物達を、今後UPする事はきっと無いのだろう。
何故なら、鮮度が落ちているから。
『自己責任論』のマインド
仕事でもスポーツでも求められるのはチームワーク。
家庭環境等の福祉関係になった途端、向けられる自己責任。
その『自己責任論』を呟く人のマインドを勝手に分析してみた。
自己責任とは、自らの行動でこなせられる恵まれた環境や立ち向かう環境に適応出来た性質の人が自分を肯定する為に用いられる様に思える。それは生まれながらに偶然手にした体力だったり、親が築いた家庭環境だったり、負けん気が強い性格だったり。その性質の要因は様々だろう。
それは結局、
こなせた人に適応する自己ルール。
もし目の前の挫けそうな人が自分のクローンだったら、その自己ルールは適応するかもしれない。
だけど、見えてる世界は人それぞれ違うもの。
自分が選択して来た痕跡を『誰か』に提示するのは楽だけど、他者が抱えている内容が自分にとっての『想像外』に直面した時、誰かの為に時間を費やして新たな情報を探し、当事者に提示する事を容易にしたがらない人は多いのでは無いだろうか?何故ならそこに『浪費する』行為がかかるから。
人が何かに費す時、相互の関係の維持や自分の立場の向上など、お金に関わらず時間浪費に相応の対価を求める。
その対価を天秤に掛ける気になれない、
顔も名前も知らない見ず知らずの他人に関与するのは面倒な事。だからつい言ってしまう。
「そんなのは自己責任だ」と。
ネット状でよく見られる「自己責任論」とは、
そういう関係性から出てくる言葉なのだと思う。
要は『自己責任論』で突き放すのは楽なのだ。
「この件に関しては当事者として参戦しない」という意思表示みたいなもので、それならいっそ第三者として見守れば良い。
重要なのは、当事者には何が必要なのかを議論べきなんだけど…
それは面倒臭いから「自己責任」と言い、「自己の正しさ」を主張する事で自分の価値を満たそうとするのかも知れない。
2018も…もう終わり。
ブログを立ち上げてから随分とご無沙汰になってます………。
書きたい事はあるものの、まとめる事を先延ばしにしていたらもう年明けを迎えそうです……
書き溜めては直しを繰り返し、更新してない内容がこちらです。
・議論のはずなのに…突如論破がやってくる
・いじめの構造
・無条件マウンティングの背景
以上、こんな感じです。
UPしている記事もそんなに内容濃くないですが、頑張って書きますm(_ _)m
来年も宜しくお願い致します。
コミュ力とは何か。
「これからはコミュ力が大事」
自分がそう言われたのは、かれこれ10年前の高校生の時。外部講師の先生から熱弁を受けました。
自分自身、コミュニケーションに対して順応性のあるタイプではなく、クラスではあまり発言はせず、部活で共通の趣味が合う友人と話すぐらいの内弁慶で、たまに調子に乗って我儘な事を口走り、相手を怒らせてしまう程のコミュ力が低い学生でした。
あれから10年経ちますが社会人経験を積んだ今、『コミュ力とは何か?』を考えると、それは双方で受け取るイメージに違いが出るのは当然の事と踏まえた上で、その違いを埋めて行く作業の事を『コミュ力』と言うのだと思います。
クラスの人気者になる事や多種多様な人と仲良くなる事が『コミュ力が高い』と評価されやすいのは、その「双方の違いを穴埋めする」作業がスムーズに行えている点ではないだろうか。
『コミュ力が高い』事が必ずしも「主張する声が大きい」事や「正しいことを主張している」事では無いと考えます。
コミュ力が高い事が人生の花形の様なポジションで受け取られやすいですが、細分化するとその作業は意外と地味で、人の発言と受け取り方をよく観察する集中力が必要な状況とも言えるでしょう。
結論。
コミュ力に対して無用な批判に怯えずに、気になった事は言葉を選んで発言して良いと思われます。そこで初めて「双方の違い」が明確化され、「違いの尊重と歩み寄り」が行われるきっかけになるのですから。
万引き家族を観てきた
現代の秩序は、ある一定レベルのお金の上で成り立つのだと思った。
みんなで貧しくなったら、法律なんて効かなくなる。
戦後に法外だった闇市にみんなで集い、物の売り買いをしていたのだって生きて行く以外他なかったわけで…
現代の秩序を維持して行きたいのであれば、
今よりも貧しさを増やさず減らして行く事だと思う。
『貧しさ』の成分はお金意外にもあって、
自分と同じ価値観を子供や配偶者に押し付ける貧しさや、手段を知らない事から来る貧しさ。色々と描かれてた。
あれは別に万引きを正当化してるわけでも無ければ、同情を欲してるわけでもない。
問題提議を投げ掛けている作品で、何をどうするべきなのか、考える機会になる作品。
「血の繋がりだけが家族じゃない」
これはごもっともな話で、
ただ子供を拾った家族に金銭的余裕があればと思った。まぁ、そんな設定じゃあ、色んな背景を持った人と家族になろうとは思わないかも知れないけど。
無自覚な差別
どうもお久しぶりです。
半年ぶり?ぐらい書いておりませんでした。
さてさて、世の中にはびっくりするぐらい
差別が改善されていませんね。
パートナーシップ制度を発行し始めたと言っても各市町村で独自に実施するようになった程度…。
国政レベルでパートナーシップ制度が実施されたわけではない。
そして…パートナーと子供を設けても、パートナーシップ制度が優先されるものではなく、戸籍上で親子でない限り、病院や役所、会社等の理解がスムーズに運ばず、パートナーは他人扱いされてしまう。
そんな記事を見たときは驚きました。
あくまでもパートナーシップ制度と戸籍上の関係性は分けたいという姿勢を示している仕組みに。そして何故、戸籍上パートナーと認めないのか。未だ進まない。無自覚な差別。
自覚した事がないから、そのままにしているのはあるかも知れない。
人が性別に関係なく、肌の色に関係なく、
国籍に関係なく、誰かを好きになるとき、
目の前に一本の障害が現れる。
「好きになった人と子供や家族を持ちたい」と思う事は、それこそマジョリティーがこれまで行って来たことで、何もおかしな事ではない。周りと1つ違う。たったそれだけで同じように過ごせないのは…やはりおかしいと思う。
男も女もよくわからない。
人間は千差万別。
どれかに割り当てようとする方が野暮。
先日、ちょっとした交流会に行って来ました。
そこで私は、久しぶりに外界に触れたような感覚と出会いました。
そこには男と女、2色に綺麗に別れた光景が広がっておりました。
そりゃあ、外見なんて千差万別。
見た目と想像する性格は違うもの…
見た目で2色と捉えるなど、それこそ野暮というものでございます。
ですが、そのスッキリとした綺麗さが私には異様とも取れるのです。
『女』という性格を私はよく知りません。
『男』という性格も私はよく知りません。
女として、男としての意見はまるで参考になり難く、またそれに沿った意見も主張できる人間ではございません。
異様なのは私なのかも知れません。
それは自覚しております。
その為か、先日の交流会での光景を目にする度、驚きと儚さを抱きつつ確認をするのです。
ああ、世の中はまだ男か女かなのかと…